フィールド・オブ・ドリームス
![]() | フィールド・オブ・ドリームス [DVD] (2012/04/13) ケビン・コスナー、エイミー・マディガン 他 商品詳細を見る |
野球の映画を見るんだぞ。
今回はわりと有名だと思う、けっこうすでに見てる人も多いと思う、この作品。
フィールド・オブ・ドリームス(原題/Field of Dreams)1989年公開アメリカ映画
このころはもうだいたい、邦題も英語タイトルのカタカナ読みそのまま、なんとなくカタカナの語感で。この作品は公開当時けっこう好評だったように記憶しています。でも私のキライな映画評論家が絶賛していたので、なんだか見る気なくなって、そういうことってあるよね。とうとう今日にいたります(^_^;)
感想。野球映画といえばそうだけど、でも野球の映画じゃない。でも野球じゃないとこれはだめだろう、なテーマ性があるんだろう。なぜならこれはアメリカ映画なのだ。
(↓ねたばれを含む感想)
何も考えないで見てもけっこういい映画だと思う。親子は人類普遍のテーマだ。人種や言語を越えて、そこには同じ感情があるはずで、それだけでこの映画は万人にとって良い映画だ。
お話の発端や展開はけっこう荒唐無稽だ。
主人公(ケビン・コスナー)は小さな農家の主。きれいな奥さんとかわいい娘がいて、平凡でも幸せな男……のはずだった。彼はある日トウモロコシ畑で謎のお告げ?を聞き、畑を潰して野球場にしてしまう。そしてある晩、彼の野球場に現れたのは古風な野球のユニフォーム姿の青年、ジョー・ジャクソンだった。往年の名選手としばしの交流の後、さらなるお告げでテレンス・マンという作家に会いに行く。
この60年代を代表する黒人作家(という設定)が出てきたあたりから、お話がぐぐぐーっと回りだし、ぐいぐい引き込まれるのを感じた。畑を潰して野球場作ってそこへ往年の名選手の幽霊がやってくる、まではただのファンタジーだが、ここでもう一人、主人公の荒唐無稽な夢を共有してくれる男が現れ、しかも同行してくるのだ。主人公のおっさんのちょっと緩い思考回路を醒めた目で見ていた私も(^_^;)、このあたりからミステリーの謎に迫って行くような気持ちになって、つまり半信半疑だけど興味津々善意の第三者的立場をこの黒人作家に重ねて、映画の世界に入って行くような気持ちになった。
この映画は普遍的な親子テーマの他に、1980年代のアメリカの空気感のようなものがあるのではと思う。80年代のアメリカの男にとって、60年代の若者文化とは何だったのか。実は私はよくわかりません(^_^;) なぜ野球なのか、というのも、アメリカ人でないと感覚的にわからないものもあるのではないかと思う。ジョー・ジャクソンは1900年代の始め頃の選手(1920年迄活躍)なので、この時点で30代だと思われる主人公の生まれる前どころか、そのさらに父親よりも前の世代の選手だ。日本でいうと、沢村栄治とかそんな感じだと思う。多分、主人公は名前と記録しか知らないだろう。
このトウモロコシ畑の野球場に姿を見せたのは、野球の夢が成就しなかった男なのだろうか。主人公が戻ってみると野球選手の幽霊がいっぱい来ていて試合をしている。選手の名前が紹介されていたけど、私は全然わからないので、あれだけど。
でもこのあとでこの映画一番の衝撃がやってくる。
それは主人公の父親が現れるのだ。それもマイナーリーグにいたころの若い姿で。二十歳前後だろうか。すごく若い。主人公よりも若い。言葉少なく純朴な青年のようだ。どんな男にも野望や夢はあったはずなのだ。みんなが感動したとかいうキャッチボールのシーンは、私にはオマケにしか見えなかった。
田舎の小さな簡易野球場になぜ往年の名選手の幽霊がやってきたのか、ちょっと納得した。それはマイナーリーグにいた父親つながりだったのね。父が憧れていた選手なので、呼ばれてやってきたということなのかもしれない。
ところで、最後にトウモロコシ畑に入って行ってしまった作家さんは、あれからどうしたのだろうか?
あそこは主人公は来るなと言われた世界、つまりあの世だ。この作家さんは最後の方は何か悟ったような言葉を並べていたので、もしかしたらすでにこの世の人ではなかったのだろうか。野球場から帰ってきて、ターンしたはずの車の前に立った、あそこから実は実体がない人だったのか……
野球の出てくるファンタジー映画。登場人物は善人ばかりで、見て気分の良い映画だ。
お話の発端や展開はけっこう荒唐無稽だ。
主人公(ケビン・コスナー)は小さな農家の主。きれいな奥さんとかわいい娘がいて、平凡でも幸せな男……のはずだった。彼はある日トウモロコシ畑で謎のお告げ?を聞き、畑を潰して野球場にしてしまう。そしてある晩、彼の野球場に現れたのは古風な野球のユニフォーム姿の青年、ジョー・ジャクソンだった。往年の名選手としばしの交流の後、さらなるお告げでテレンス・マンという作家に会いに行く。
この60年代を代表する黒人作家(という設定)が出てきたあたりから、お話がぐぐぐーっと回りだし、ぐいぐい引き込まれるのを感じた。畑を潰して野球場作ってそこへ往年の名選手の幽霊がやってくる、まではただのファンタジーだが、ここでもう一人、主人公の荒唐無稽な夢を共有してくれる男が現れ、しかも同行してくるのだ。主人公のおっさんのちょっと緩い思考回路を醒めた目で見ていた私も(^_^;)、このあたりからミステリーの謎に迫って行くような気持ちになって、つまり半信半疑だけど興味津々善意の第三者的立場をこの黒人作家に重ねて、映画の世界に入って行くような気持ちになった。
この映画は普遍的な親子テーマの他に、1980年代のアメリカの空気感のようなものがあるのではと思う。80年代のアメリカの男にとって、60年代の若者文化とは何だったのか。実は私はよくわかりません(^_^;) なぜ野球なのか、というのも、アメリカ人でないと感覚的にわからないものもあるのではないかと思う。ジョー・ジャクソンは1900年代の始め頃の選手(1920年迄活躍)なので、この時点で30代だと思われる主人公の生まれる前どころか、そのさらに父親よりも前の世代の選手だ。日本でいうと、沢村栄治とかそんな感じだと思う。多分、主人公は名前と記録しか知らないだろう。
このトウモロコシ畑の野球場に姿を見せたのは、野球の夢が成就しなかった男なのだろうか。主人公が戻ってみると野球選手の幽霊がいっぱい来ていて試合をしている。選手の名前が紹介されていたけど、私は全然わからないので、あれだけど。
でもこのあとでこの映画一番の衝撃がやってくる。
それは主人公の父親が現れるのだ。それもマイナーリーグにいたころの若い姿で。二十歳前後だろうか。すごく若い。主人公よりも若い。言葉少なく純朴な青年のようだ。どんな男にも野望や夢はあったはずなのだ。みんなが感動したとかいうキャッチボールのシーンは、私にはオマケにしか見えなかった。
田舎の小さな簡易野球場になぜ往年の名選手の幽霊がやってきたのか、ちょっと納得した。それはマイナーリーグにいた父親つながりだったのね。父が憧れていた選手なので、呼ばれてやってきたということなのかもしれない。
ところで、最後にトウモロコシ畑に入って行ってしまった作家さんは、あれからどうしたのだろうか?
あそこは主人公は来るなと言われた世界、つまりあの世だ。この作家さんは最後の方は何か悟ったような言葉を並べていたので、もしかしたらすでにこの世の人ではなかったのだろうか。野球場から帰ってきて、ターンしたはずの車の前に立った、あそこから実は実体がない人だったのか……
野球の出てくるファンタジー映画。登場人物は善人ばかりで、見て気分の良い映画だ。