続BLCDにも好みのカプがある
続BLCDにも好みのカプがある(前記事はこちら)
やおいの国をさすらう貴腐人の自分再発見
長い独り言なので読まなくていいですよ
声優が演じるBLは受け付けない頃もあったのさ
男性声優によるBLのラジオドラマが登場したのは1980年代、今からざっと四半世紀も前のことだ。当時カセットブックと呼ばれた今で言うところのBLCDを、私はお友達に聞かせてもらうなどして何作品か聞いた。作品名は今となっては記憶がはっきりしない、たぶんあれとかあれじゃないかと思うが、何が気に入らなかったのか「二度と聞くまい」と思ったのが当時の感想だった。
BLとかやおいとか非現実的なものは自分の空想の中だからこそ完璧なのであって、現実の商品が私の好みに合うわけがないのよ。原作の好き嫌いに加え、声のイメージてのもあるわけで、好みから外れたものを聞くと精神的にダメージがあるのだ。腐女子の中にはマンガか小説しか受け付けない、声が入ったものは敬遠する人もいるが、それはつまりこういうことなのだ。
腐女子はBLならなんでもいいわけじゃあないのです。
とにかく大昔のことなので自分でも忘れてしまっていたのだが、そのときのダメージは相当なものだったようで、その後四半世紀に渡って私は本当にBLの商業作品やBLCDに手を出すことはなかった。
好きな声優のBLCDなのに萌えるものと萌えないものがある
遅れてきた小西ファンである私が、BLCDの小西作品を買い集め始めたのは2年前(2008年)の年明けのことだった。現実の男優の声でBLはだめだと長年思っていたのは間違いで、私のこの狭いストライクゾーンに来る声にとうとう出会ったのだ。
買い始めた頃は、どういう作品が好きかとか、どんな役、どんな声で演じてるのが好きというような好みの自覚は全然なかった。小西ボイスさえ聞ければ、物語も内容もどうでもよかった。
それがだんだん枚数を重ねていくうちに、小西ボイスのBLCDにも萌えるものと萌えないものがあることに気付く。
もちろん今でも小西作品なら何でもいいというのは嘘ではない。メインにキャストされれば内容に関係なく買い決定。典型的なキャスト買いである。つまりストライクゾーンだから全部バットが出る、振れば必ず当たる、キャスト買いはそういう意味では絶対に外れはない。だけど全部ヒットゾーンに飛ぶわけじゃないのね。ホームランもあれば、ファウルチップにしかならないのもある。最近それがCD聞く前からわかってしまうようになったのである。
BLCDのカラーは共演者で決まる
小西作品ならなんでもいいはずなのに、萌える作品と萌えない作品の違いはなぜ生まれるのか。
最初、それは原作のせいだと思ったのね。原作の作風とか小西さんの役柄やセリフ、どんな場面かとか。
でもそうじゃないのがこの間わかった。作風も関係ないわけではないけど(年下攻め、ですます体は萌えないとか)、決定的な分かれ目は相手役声優なのだ。
多分声質だと思う。
そう思うわけは、萌えを感じる声は原作の好き嫌いに関係なく萌える、その逆は何を何回聞いても萌えない。エロありエロなし関係ない。原作軽視のように聞こえたら申し訳ないけれど、私はそうなのだ。
この声質の好みは、マンガでいう絵柄のようなものじゃないかと私は考えている。マンガ作品だって、読む以前に絵柄で好みが分かれるってことあるじゃないですか。実際私はマンガには絵柄からくる選り好みはある。絵柄次第で萌える作品萌えない作品は読者個々に違うはず。そういうのがBLCDにもあるんだと思う。
そしてBLCDの「絵柄」は声優一人じゃあなくて、受け攻め担当二人の声優さんの声質バランスで決まるものだと思うのだ。いわゆる好みのカップリングというやつだ。
今にして思えば、最初に福山ボイスに遭遇したとき「あれっ?」と思って、小西×福山の他の作品はないのか検索かけたのは、なんか「私が探していた物はこれだわ」的なものを感じたんだろうな。でもなんでこの声質にひっぱられるのかは、自分でもまだよくわかっていない。
念のために言っておくけれど、これは私の中の萌え基準の仮説なのであって、他の腐女子や声オタがどういう動機でBLCDを聞いているかはそれは個々に違うはず。
もうひとつ誤解のないように念を押しておくけれど、別に声優さんの好き嫌いとか上手い下手を語っているわけではない。腐女子の個人的好みにヒットするかどうかは声優さんの責任じゃないです。
福山ボイスの謎と仮説
つまり、BLCDにおける声優の順列組合せの好みは、それは私の中に理由がある、ということなのか。
前に「学園ヘヴン」でなぜ私が王啓なのか考えたとき、それは私の中の依存心や甘えを満足させてくれるからだ、というのが結論だった。BLCD「きみがいなけりゃ息もできない」でも私は同じようなことを考えた。
つまり、福山ボイスのあの鼻にかかったような独特の高音で、知性に欠けたような声(^_^;)でかわいいことを言われると、私の深層心理に沈んでいた依存心や甘えが目覚めてしまうのではないか。
もしかして私がBLに求めている萌えとは、依存とか甘えといった後ろ向きの人格が癒されることなのかな。
福山ボイスで抑圧から解放されて、小西ボイスでそれが癒される。福山ボイスに引っ張られる気がするのはそういうことなのかな。
そう考えると、乙女もの、一般作、BL、同じように小西ボイスに癒されるシチュエーションでも萌えが違うのは説明がつく。心のどこにささるのかが違うんだと思う。
BLCDがないと生きて行けないと感じるのは、他のジャンル作品では代用が効かないからなのか。
BLCDについてここ何ヶ月か考えていた仮説です。
やおいの国をさすらう貴腐人の自分再発見
長い独り言なので読まなくていいですよ
声優が演じるBLは受け付けない頃もあったのさ
男性声優によるBLのラジオドラマが登場したのは1980年代、今からざっと四半世紀も前のことだ。当時カセットブックと呼ばれた今で言うところのBLCDを、私はお友達に聞かせてもらうなどして何作品か聞いた。作品名は今となっては記憶がはっきりしない、たぶんあれとかあれじゃないかと思うが、何が気に入らなかったのか「二度と聞くまい」と思ったのが当時の感想だった。
BLとかやおいとか非現実的なものは自分の空想の中だからこそ完璧なのであって、現実の商品が私の好みに合うわけがないのよ。原作の好き嫌いに加え、声のイメージてのもあるわけで、好みから外れたものを聞くと精神的にダメージがあるのだ。腐女子の中にはマンガか小説しか受け付けない、声が入ったものは敬遠する人もいるが、それはつまりこういうことなのだ。
腐女子はBLならなんでもいいわけじゃあないのです。
とにかく大昔のことなので自分でも忘れてしまっていたのだが、そのときのダメージは相当なものだったようで、その後四半世紀に渡って私は本当にBLの商業作品やBLCDに手を出すことはなかった。
好きな声優のBLCDなのに萌えるものと萌えないものがある
遅れてきた小西ファンである私が、BLCDの小西作品を買い集め始めたのは2年前(2008年)の年明けのことだった。現実の男優の声でBLはだめだと長年思っていたのは間違いで、私のこの狭いストライクゾーンに来る声にとうとう出会ったのだ。
買い始めた頃は、どういう作品が好きかとか、どんな役、どんな声で演じてるのが好きというような好みの自覚は全然なかった。小西ボイスさえ聞ければ、物語も内容もどうでもよかった。
それがだんだん枚数を重ねていくうちに、小西ボイスのBLCDにも萌えるものと萌えないものがあることに気付く。
もちろん今でも小西作品なら何でもいいというのは嘘ではない。メインにキャストされれば内容に関係なく買い決定。典型的なキャスト買いである。つまりストライクゾーンだから全部バットが出る、振れば必ず当たる、キャスト買いはそういう意味では絶対に外れはない。だけど全部ヒットゾーンに飛ぶわけじゃないのね。ホームランもあれば、ファウルチップにしかならないのもある。最近それがCD聞く前からわかってしまうようになったのである。
BLCDのカラーは共演者で決まる
小西作品ならなんでもいいはずなのに、萌える作品と萌えない作品の違いはなぜ生まれるのか。
最初、それは原作のせいだと思ったのね。原作の作風とか小西さんの役柄やセリフ、どんな場面かとか。
でもそうじゃないのがこの間わかった。作風も関係ないわけではないけど(年下攻め、ですます体は萌えないとか)、決定的な分かれ目は相手役声優なのだ。
多分声質だと思う。
そう思うわけは、萌えを感じる声は原作の好き嫌いに関係なく萌える、その逆は何を何回聞いても萌えない。エロありエロなし関係ない。原作軽視のように聞こえたら申し訳ないけれど、私はそうなのだ。
この声質の好みは、マンガでいう絵柄のようなものじゃないかと私は考えている。マンガ作品だって、読む以前に絵柄で好みが分かれるってことあるじゃないですか。実際私はマンガには絵柄からくる選り好みはある。絵柄次第で萌える作品萌えない作品は読者個々に違うはず。そういうのがBLCDにもあるんだと思う。
そしてBLCDの「絵柄」は声優一人じゃあなくて、受け攻め担当二人の声優さんの声質バランスで決まるものだと思うのだ。いわゆる好みのカップリングというやつだ。
今にして思えば、最初に福山ボイスに遭遇したとき「あれっ?」と思って、小西×福山の他の作品はないのか検索かけたのは、なんか「私が探していた物はこれだわ」的なものを感じたんだろうな。でもなんでこの声質にひっぱられるのかは、自分でもまだよくわかっていない。
念のために言っておくけれど、これは私の中の萌え基準の仮説なのであって、他の腐女子や声オタがどういう動機でBLCDを聞いているかはそれは個々に違うはず。
もうひとつ誤解のないように念を押しておくけれど、別に声優さんの好き嫌いとか上手い下手を語っているわけではない。腐女子の個人的好みにヒットするかどうかは声優さんの責任じゃないです。
福山ボイスの謎と仮説
つまり、BLCDにおける声優の順列組合せの好みは、それは私の中に理由がある、ということなのか。
前に「学園ヘヴン」でなぜ私が王啓なのか考えたとき、それは私の中の依存心や甘えを満足させてくれるからだ、というのが結論だった。BLCD「きみがいなけりゃ息もできない」でも私は同じようなことを考えた。
つまり、福山ボイスのあの鼻にかかったような独特の高音で、知性に欠けたような声(^_^;)でかわいいことを言われると、私の深層心理に沈んでいた依存心や甘えが目覚めてしまうのではないか。
もしかして私がBLに求めている萌えとは、依存とか甘えといった後ろ向きの人格が癒されることなのかな。
福山ボイスで抑圧から解放されて、小西ボイスでそれが癒される。福山ボイスに引っ張られる気がするのはそういうことなのかな。
そう考えると、乙女もの、一般作、BL、同じように小西ボイスに癒されるシチュエーションでも萌えが違うのは説明がつく。心のどこにささるのかが違うんだと思う。
BLCDがないと生きて行けないと感じるのは、他のジャンル作品では代用が効かないからなのか。
BLCDについてここ何ヶ月か考えていた仮説です。