pixiv

 pixivに、鉄拳同人時代の絵をupしました。
 以前、バードスクランブルホームページに展示していた絵を、ぼちぼち公開していくつもりです。
 昔のホームページはモニタも狭く、データを置けるwebスペースも小さかったので、あまり大きなサイズの画像は展示できませんでした。鉄拳のは、大容量時代になってからそれに合わせてリサイズしなおしたものです。御法度や男塾など他の絵は小さいままなので、元データを探してもうちょっと見栄えのいい(^_^;)やつを作って公開するわ。

 ただ、pixivは登録してログインしないと使いづらいですかね?
 このブログを画廊しちゃった方がいいのかな? ああ、その方が良かったのかなあ。それもそうか。
 でもpixivで私を初めて見てくれる人もちょっとくらいはいるだろうから、それはそれでいいかな。

 鉄拳のころ、私は三十代後半ですね。気合いで描いてますね。紙にさえ向かえば何枚でも絵が浮かんできた。それくらい鉄拳にはまってましたし、体力もあった。

ホームページあれこれ

ホームページあれこれ~貴腐人のひとりごと~

 まあ、たいしたもんじゃないのですが、私が自分の同人サークル(サークルっていっても基本一人ですが(^_^;))のホームページを作ったのは1997年のことでした。けっこう早い時期です。(Windows95の頃。Macは漢字トーク7。)私がインターネットというものを始めたのは1996年なので、その翌年には本とにらめっこで始めました。
 最初はプロバイダがサービスで提供しているスペースでした。

掲示板を設置する
 最初の挑戦はこれでした。当時、プロバイダ提供のHPでCGIを使えたので、さっそく掲示板設置に挑戦。
 とってきたのはレスキューさんの初期のもので、カスタマイズを前提にした仕様になってないし、そもそも設置方法が読んでも全然わからない。だいたい技術者の説明なんて一般人にはわからないものなんですが(^_^;) シェルテストって何?(^_^;)
 でも人様のホームページめぐりをして、設置方法などをいろいろ読んでなんとなく理解して、ちゃんと動いたときはとても嬉しかったな。CGIでどうして掲示板になるのか、その理屈は全然わかってないですが。要は、自動車の原理や構造がわかってなくても、運転はできるということなのです。

最初のホームページ移転
 その時は鉄拳の同人誌やっていて、絵もばりばり描いていたので、ホームページスペースが5MB10MBなどあっという間に手狭になってしまい、それで他に貸しスペースを探す事に。当時はHP貸しスペースも決して安い物じゃなかったので、友人と共同で借りようということになって、それで同人イベントでチラシをもらったさくらインターネットに移転した。当時としては大容量の1Gで20000円/年くらいだったと思う。
 とにかく大容量が嬉しくて、同人以外のコンテンツなんかを作ってみたりした。一人で管理しきれないくらいいろいろ作った。
 しばらくして、さくらインターネットからサービスの変更のお知らせが。10GBで5000円/年に値下げ。この時、表からはわからないのですが、サーバも移転。HPも全部ファイル入れ直し。全体があまりに広大になっていたので、この移転作業が大変だった。とりあえず最小限のだけ速攻で移転して、残りはあとで……のつもりだったのですが時間がたつとだんだん面倒に……(^_^;) 自分ももう若くないので、二度目の移転はコタエました。
 とても更新できそうにないエリアは消してしまおうとも思ったのですが、愛の残骸を敢えて残しておくのもいいかもしれないと思って、そのままにしてあります。

ブログをやってみる
 ブログとはなんぞや? 最初にこれに手を付けたのはテレビのライブドアのCMの影響でした。
 当時は松田龍平さんのおっかけだった私。今では滅多にお目にかかれないけど、さくらインターネットもときどきつながらなかったり、鯖落ちしていることがあった。同じ鯖の人にやたらアクセス数が多かったりデカいファイル置いたり、プログラムが暴走とか?なんか時々そういうのがあって、肝心なとき自分のHPに入れないことがあった。それで外部に何かもうひとつ要るな、と思ってブログというのを使ってみようということになった。
 その後FC2というのを見つけ「ああ、広告がない!もっと事前によく調べて最初からここにすればよかった」と、ここに移転しました。

これから…
 私は自分の文章や絵の間に広告が入るのが一番許せない。私はそこらへんの素人絵師だけど、間に広告がはさまれるのだけはイヤなの。それがイヤだからわざわざ有料スペースを借りているわけなのです。
 ただ有料スペースの一番の弱みは、支払いが滞ったら速攻止められてしまうということなのだ。
 先日、ドールの記録をあれこれ書いていて(ドールのブログは有料サイトの中にあります)思ったのですが、ドールのお話なんか人様にとってはどうでもいいようなことなので、いつ世の中から消えても別にどうというものでもないけど、こんなに苦心して記録作っても消えるときはあっという間だな……と思って少し虚しくなった。HP用に作っていればとりあえず自分のMacの中には元ファイルが残るので、再構築が可能だけど。
 小西さんのファンは他にも大勢いるので、このブログが消えても、私の感想文が消えても、他にいくらでもあると思うんですよ、小西ファンの作品レビューとか記録とか。でも自分のドールは世界でひとつしかないので、人に見てもらいたいと思うと、支払いが滞ったくらいで速攻止められてしまうような記録法はどうかと思うのよ。
 あくまで趣味の話なんで、世の中にとってはどうでもいいことですが、いろいろ考えてやってみます。
(2011.3.26)

(2015.8.31追記)
 2015年2月、webサイトを閉鎖しました。同人誌活動も、コミケット参加の体力に自信がなくなってきたので、コミケットからは引退しました。これからはこのブログを拠点に、地味にぼちぼちやっていきます。
 過去の愛の記録は、ブログなどにぼちぼち再録していこうと思います。


ペルセウス座アンドロメダ座 続刊の行方

090818ypma.jpg
 夏コミで作ったこの本。10日間で書いた小説本である。書いてるうちに勝手に一輝が出てきた。予定と違う話になったので、これは同人誌の神様が勝手に書いた本なのだ(^_^;)

 そんなわけで(同人誌の神様が書かせてくれたものなので本にしないといけない、という意味)とりあえず金銭的損失は承知で作った。
 問題は、このお話の続刊について。今さら星矢というより、サークルの配置が全然違うし。
 実はこれは4話構成の最終話のつもりで考えた。残りの3話はどうしよう。やっぱり全話書くまで印刷しない方がよかったのかな。かと言って、残りを発行するのも、いくら採算度外視でもこれ以上の持ち出しはしたくない。星矢同人に戻る予定もないし。
 続きはweb公開でいいかな。

[More...]

さらにC翼ブームのことなど

 C翼ブームの時代は、コミケットにとってもひとつの変化の時代だったかと思う。

 とにかく、C翼サークルの激増は、まさに「雪崩をうって」という表現がぴったりだった。新規参入のサークルももちろん多かったが、それまで他の作品をやっていたサークルが一斉に参入してきたから、同人誌イベントはあっというまにC翼に席巻されてしまっていた。
 こうした動きは84年の夏頃から目立ちはじめ、85年にはコミケットの記録にも「C翼に人気が移行」とあるように、私の記憶が正しければ、東館はC翼ジャンルで占拠、みたいな状況だったはずだ。
 首都圏のイベントはコミケットの他にも、いくつか印刷屋主催のものなどがあって、2~3ヶ月置きに東京流通センターや蒲田、浜松町の都産、浅草橋の文具会館、などで行われていた。84、85年のころは、イベントに出るたびにだんだん販売数が増えていったくらいで、急速に市場そのものが倍々ゲームで拡大していったのである。おそらくイベントも開催するたびに参加者が増えていたのだろう、サークルも売るものがなくなってしまうので、次々新刊を出さなければならなかった。

 ブームとともに拡大化したことで、いろいろな影響があった。
 まず同人誌の印刷費が値下げされた。フルカラー印刷が200部くらいから使えるようになったのはこのころのことだ。
 同人誌即売会が増えたのも、このころからだ。主催は印刷屋、個人、そしてイベント会社も登場した。
 同人誌イベントの搬出乳に宅急便サービスが始まったのも……たしかこの時代だったと思う。個人主催の小さいイベントにはまだなかったが、業者が主催するイベントには、印刷屋から直に会場に新刊を入れるサービスが始まったのもこのころだったと思う。

 C翼サークルは、そのあとに続く星矢もだが、原作に絵が似てないほどよい、と言われたジャンルだった。
 というのも、そもそもC翼サークルは、圧倒的にそれまで他のジャンルをやっていたところが多く、それもオリジナルコミックをやっていたところが多かったのだ。
 C翼以前は同人誌はまだアニパロが主流ではなく、創作系もかなり多かったし、アニパロは創作より一段下に見られていた時代だった。その当時のアニパロサークルは、たいてい創作同人や学漫出身だったのである。これは年代的なもので、この時代は同人誌の目的は、自分の作品を描くことであって、アニパロはアニメファンとしてのファン活動だったから、漫画を描くといえば当然オリジナル作品のことだった。
 だからアニメ絵からいきなり同人マンガを始めたサークルというのはまだあまりいなくて、いずれは自分も手塚治虫か池田理代子に…というのが志半ばでC翼に転んでしまった(^_^;)という素性のサークルが多かったのである。
 そんなわけで自分の絵柄で翼キャラを描きわけ、そして意外に長編作家が多かった。C翼とは名ばかりで、ほとんどオリジナルのSFや時代劇も多々あった。

続C翼ブームのことなど

 追記。

 それで、NHK9時のニュースでC翼ブームが紹介されたことがあった。実家の母や妹も見たので、もちろん全国放送である。
 番組後半の時間帯で文化方面の特集みたいなコーナーで、「今、若い女の子の間でブーム」になっているコミック…という紹介から始まって、若い女の子が長蛇の列をなす同人イベントやC翼サークルにも取材。同人活動の様子から同人誌の内容まで紹介していて
「中には、友情から恋愛に発展することも…」
と、ちらっとやおい同人誌の誌面も紹介(^_^;)
 それは、トーンでつぶしたラブシーンでしたが(^_^;)
 番組放送後、実家から電話がかかってきて、母が
「あんたが東京で何をやってるか、よくわかったわ」
と言われてしまいました。妹は知っていたけどね…

 C翼ブームのことを、集英社はどういう態度だったかというと、そもそもパロディややおい同人誌というものについて批判はしていた。小学館や講談社はTVのインタビューとか新聞記事で編集がコメント「個々の事例を見ないとなんともいえない」とか「オリジナリティがあれば一概に否定はできない」とか、あいまいなことを言っていたが、集英社は版権部のコメントで「苦慮している」というようなことをコメントしていたと思う。
 ジャンプの本誌にも批判のコメントが載ったことがある。編集後記あたりの編集さんのコメントで、「C翼の同人誌はすごい。8割以上はやおいで…」
 でもその週の翼の連載は、ピエールのシャワーシーンが見せ場でした(^_^;) そのときは「おまえが言うな」と思ったけど、今思うと編集の確信犯的煽りだったかもしれない。

 それから、私に長男が生まれたのはC翼ブームの後でした。
 友人らは「絶対名前は小次郎で決まりよね」などと決めつけていたけれど(^_^;)
 いや、だって、小次郎なんてナンバー2を暗示するような名前はつけませんよ。ふつー。そもそも長男だし(^_^;)
 ふつうに、名刺にしたとき見栄えがよく、日本人らしい、武将や侍にもつけられそうな名前にしました。

C翼ブームのことなど

 C翼(きゃぷつば…と読む)ブームのこと。

 コミケットも、その時々でいろいろなブームがあった。つまり流行ものジャンルの拡大である。
 私は70年代のコミケはあまり知らないが、たぶん名古屋と似たような感じだったろうと想像すると、少女マンガの商業誌の影響を受けて、オリジナルのやおいコミックが主流だったんじゃないかと想像する。というのは、当時の描き手がコミック同人誌を立ち上げた世代で、私よりももうちょっと年上だったはずだから、アニメよりもまずマンガファンからこの世界に入ったことと、当時の商業誌の影響を考えると保守的な少年誌よりも少女マンガの影響の方が大きかっただろう。(大島弓子、萩尾望都、竹宮恵子、山岸涼子など)
 だいたい、耽美なガイジンキャラで、ロックバンドか寄宿制の学校にいて、テーマはやおい、というのが通常よくある女性向け同人誌だった。
 劇場版ヤマトやガンダムが登場したのちは、アニパロコミックが登場した。
 そこからの流れはあまりよく覚えてないが、「うる星やつら」が大ブームになって、男の子の参加者が大勢押しかけるようになった。80年代のはじめごろだったか。それまで腐女子の方が多かったコミケットの勢力図が、ここで逆転した。うる星などのかわいい女の子の出てくるアニメのサークルに、若い男の子の長蛇の列ができるようになったのだ。
 この頃はまだ猥褻規制などのコミケルールはゆるかったので、胸が乳牛のように腫れたラムちゃんのエロい看板を持って客寄せをしているサークルとかあった。また今のようにジャンル分けがなかったので、やおいサークルの隣や正面が男性向けエロだったりして、お互いに気まずい思いもした。気まずいと思ってくれる紳士なサークルがお隣ならまだよいが、だいたい絵が下手くそな野郎同人に限って上記のように平気でエロい絵をディスプレイしていたものだ…。
 一方、ラムちゃんの登場後、腐女子向けには「六神合体ゴッドマーズ」が登場した。(私は当時はまだガッチャマン同人をやっていた)
 そのあと、C翼が登場する。同人誌が大ブレイクしたのは84年初め頃だったと思う。
 春先の同人イベント行ったら、高校生くらいの女の子たちが体操服に短パン姿でサッカーボールを持って集まっているのである。いきなり服を脱ぎ出すからなんだ?なんだ?(^_^;)と思ったら、中に短パンと胸に東邦とか南葛とかかいてあるシャツを着ている。そのへんに脱いだ服を重ね置いて、同人誌なんかもう書き捨てのようなものをスペースに置いただけで、
「いくよ、翼君!」
「よし!いくぜ!タイガーショット」
ときゃぷつばごっこが始まってしまうのである。髪の長い女の子は若島津役で赤いジャージだったりした。
 この当時のサッカーウェアは、ほんとにパンツが見えそうなくらい短くてスケスケ素材だったのものだった。いや、目のやり場に困るようなこれはコスプレといえるのか?(^_^;) それでほんとにボールを蹴ってガラスを割った事例があり、今でも同人イベントの持ち込み禁止事項には「ボール」があるのである。
 最近の若いもんはけしからん! と憤慨していたんだけど、じきに自分も転んでしまって(^_^;)
 この時期(84年ごろ~)、転びきゃぷつば、と呼ばれるサークルが続出した。それまでオリジナルやおいとかロックバンドファン(洋楽ファン)をやっていた同人誌が、雪崩を打ってC翼に鞍替えした。そのせいで壊滅したジャンルもあるとのことだ。また、当時は数人で同人誌をやるのが一般的で、メンバー内で誰々がC翼に転んだ、けしからん、でもめたあげく空中分解したサークルを私はいくつか見た。
 C翼は、キャラが中坊、泥臭いサッカーマンガ、顔がおたんびとは程遠い、少女マンガとは対局にある造形なので、「何がいいのかわからない」とC翼に転向していった友人の裏切りを嘆く声は多々聞かれた。はっきりいって、JUNE誌などには目の敵にされていた時期もあった。
 その後、今度は86年「聖闘士星矢」の登場で、耽美を自称する少女マンガ愛好者も星矢同人誌に鞍替えしてきて、これ以降、やおいコミックは少年ジャンプのアニメが主流となるのである。

 それで、私がC翼に転んでしまったのは、アニメの中学生編から。大人になった日向君に一目惚れ。一人沖縄に旅立つあたりで、もう私の心は日向君のもの。
 当時、ガッチャマンの友人たちの白眼視などものともせず、「私は小次郎くんが好き!」と宣言して、バードスクランブルという名前のままC翼にジャンル替えしてしまいました。84年の夏だったと思います。後年、「あれは小次郎の勝利宣言のようにかっこよかったよ」と小次郎ファンの友人には言われました。
 私がC翼で学んだこと。
 それは、人にはそれぞれ異なった価値観がある、ということ。
 私は小次郎が一番好きだったわけなんだけど、友人を見回すと、松山が好きだったり、翼が好きだったり、岬が好きだったり、友人の性格によって選ぶキャラがちがうんですよね。
 友人Rは岬くんが好きで、岬くんのこういうところが好きだ…という話をよく聞かせてくれたんですが、さいごに「僕は勝つんだ! こいつ結局自分のことなんだよね、こういう本音が好き」と言われて、なるほどなあ…と思いました。
 友人Yは、最初は岬くんが好きということだったんだけど、あとでこっそり「実は翼君が一番好き」と告白した。そしてさらに「小次郎が嫌い」だというのです。なんでかというと、小次郎だけ敵意をむき出しにしてくる嫌な奴だから。私は目からウロコでした。そういえば、小次郎だけだ。他のキャラは、いい勝負をしよう、翼くん。たしかに小次郎は露骨だ。
 とすると小次郎は作者の苦手なタイプなんだろうか……と想像した。

 C翼同人のころは、原稿用紙に向かえばいくらでも描けた時代でした。
 でも、ちょっと落ち込むことも多かったです。心血注いでやりましたけれど、C翼・星矢あたりで、時流についていけないものはなんとなく感じていました。楽しく活動しましたので、満足ではあるんですが。

合体同盟のことなど

 サークル30周年ということで、回顧録の原稿の下書きをブログにメモっています…

 初めてオフセット印刷で同人誌に参加したのは……実は記憶がはっきりしないのだけど、「合体同盟」か「海王星」というマンガ同人だった。バードスクランブルを自分で始めるより前、1978年ごろのことかと思う。(あとで調べてみるけど…)
 「海王星」はどういう縁で描いたかまったく覚えていないが、私は当時大学生で、美術系の短大に進学した友人の紹介だったかもしれない。何冊か作ってこのサークルは解散した。
 「合体同盟」は、知る人ぞ知る、コミケット黎明期の大手サークルだった。当時は私は名古屋方面で活動していたので、東京でどんな様子だったか全然知らないけれど、相当なもんだったらしい。それで、どういうご縁でここで描くことになったか、まったく覚えていない。タツノコものを描く人がいないので描いてくれ、と主催者に言われたことは覚えている。ということは、やっぱり誰かの紹介なんだろうか?
 「合体同盟」はアニパロ同人の草分けのようなサークルで、アニメーターやプロのマンガ家(後にプロになる人を含む)などが大勢参加していた。今で言うところのアニメのやおいマンガを出していた。私が参加したときは、解散のすこし前くらいで、部数が増えすぎて通販事務が混乱してきた時期だったと思う。私は本誌で描く機会はあまりなくて、いきなり個人誌を出すことになった。それを大半自分で売りさばくことになって、当時すでにバードスクランブルを始めていたのだけど、うちで刷ってる部数よりも多いので、びびりながら請け負ったんだけど、さすがに合体同盟の知名度であっというまにさばけてしまった。
 合体同盟でいろんな人に知り合ったけど、合体同盟でも描いていた某氏(後にタツノコ入りして現イラストレーター)にタツノコのショップでばったり出会った時は、世の中は狭いものだと思った。

 もうひとつ、同人発足当時の思い出が「OUT」という雑誌だ。これもアニメ雑誌の草分けだ。アニメージュ誌創刊より前の話だ。アニメ関連の雑誌がこれしかない状態だったので、イラスト投稿もここしかなかった。後にガッチャマン同人誌で知り合うことになるSYさんと知り合ったのもOUT誌上だった。
 誌上で知り合うというのも変な話だけど、お互いにガッチャマンのイラストで載ってると「ああ、この人もガッチャマンファンなんだ」てわかるじゃないですか。それで何度かイラストをお互いに見てると、それだけで知り合いになったようなものだった。それで後々、上映会などで、共通の友人の友人を介して「こちらがSYさんです」と紹介してもらって、でもなんか数年来の文通友達のような感じで会うわけです。

 東京のコミケットに初めて参加したのは……あまりよく覚えてないけど、たぶん川崎でやったコミケで、東京に遊びに来た時。ガッチャマン同人をやってる知り合いのスペースに置かせてもらった。マンガなら確実に売れるから!と強く言われて持ってきたのだけど、ほんとにあっという間に売れてしまって、やっぱり東京はすごいなあと思った。これはまだ名古屋で活動していた当時のこと。
 本格的にコミケットに参加するようになったのは……実はまったく覚えてなかったんだけど、先日20数年来の友人Mさんの証言によると……
 それは私が結婚して東京に出てきたからのことで、毎回コミケットに参加していたMさんのスペースに委託したのが始まり。Mさんは複数スペースとっていたのだけど、委託してくるはずの知り合いが来ないことになり、「スペースが空いたので本持ってきて」と電話で連絡くれた。それで在庫などを持って出たら意外に売れて、私は「次回は自分でスペース取って出る」ということになった。それがコミケット参加の始まり。晴海会場でのこと。だそうである。
 ……ごめん……人からうけた親切はまったく覚えてない私だった(-_-)
 正直、初参加の記憶はさっぱりない。都内の友人のアパートに泊まり込んで、寝不足でコミケに手伝いに行ったのは、あれは学生時代のことだったか。自分でスペースを取るようになったのは、在庫がふえていたこともあるだろうし、なにより一緒にコミケに行く友人が減っていた、あるいはそれぞれ違うジャンルになっていたからかもしれない。

人間には相性というものがある

 つらつら振り返るに、同人誌活動とは人間関係そのものでもあった気がする。
 同人誌を通して、いろんな人に知り合って、友達になって、そして消えていった。でも20年のつきあいになった友人もいる。
 なんていうか、なんとなく気があって、なんの努力もしないのにいつまでも仲良しでいられる人。仲良くなりたいと思って努力したけど、ある一定以上親しくなれなかったり。仲良くなったはずなのに、いつのまにか切れてしまったり。
 場所が同人誌だから利害関係とか仕事の都合とかは考えなくていいわけで、ほんとうに単純に好き嫌い、合う合わないだけの人間関係なのだが、結局こういうのって、持って生まれた相性のようなものがあって、自分の努力で選べるものではない気がするのです、友達って。
 同じ趣味だったら話が合うとか仲良くなるきっかけにはなるかもしれないけど、それで友達になれるものでもない。かと思えば、1~2回メールが往復するだけで、まるで10年来のつきあいのようになったり。
 今回はそういう不思議なご縁というのを。

■正反対の考え方をする人がいる
 これは男塾同人をやっているころのこと。
 友人Kと一緒に、印刷屋さんで入稿手続きをしていたとき、どういう会話の流れだった忘れたが、こんな会話をした。
K「もし、正岡さんが『正岡さんて絵上手いですね』と誉められたら、あなたはたぶん『ありがとう』って胸を張る方でしょ?」
私「うん!」
K「でも、たいていはね、上手いですねって誉められたら『いいえ!私なんかとてもとても…』て答えるの。でも、そういう人に限って、心の中ではそんなこと思ってないからね」
私「え?」
K「そんなことないですよ~と卑下するのは、○○さんて上手いですね、という言葉を期待して言ってるわけ」
私「え? ちっとも知らなかった。じゃあ、同人誌の後書きでひたすら反省して、お目汚しですいません、とか書いてあるのは、そういう意味?」
K「そうだよ。下手ですねなんて感想もらいたくないから、そう書くの」
私「そうだったのか…。後書き読んで、なんて素直で謙虚な人なんだろう、とずっと思っていた」
 すると、そこまで話を聞いていた印刷屋さんとたまたま居合わせた他の同人さんたちが一斉にゲラゲラ笑い始めた。

■正反対の価値観というものがある
 友人と呼べるかわからないけど、かなり昔から知り合いなのに、ちっとも仲良くなれなかったSさんという人がいた。同じようなアニメやゲームが好きで、住んでるところも隣の市だし、イベントでもわりとよく顔合わせるし、それでもなんかお互いしっくり来なかった。
 同じ作品が好きでも、考え方が違うとか趣味が合わない、というのはなんとなくわかってはいた。だからたぶん向こうから見ても同じだったろうと思うけど、お互いの作品を読者として好きではなかったんだと思う。
 それで決定的だったのは、あるアニメ同人のとき、私が作品の感想を書き送った、その反応だった。「こんな感想もらって、私は傷ついた」
 具体的に何を書いたか、文面までは覚えてないけれど、私はその作品はよかったと思って書いたのだった。
 別の友人にこの手紙の何がいけなかたのか相談したところ、私の手紙の下書きを読んで(ワープロなので元の文が残っていた)
「正岡さんにしては、めずらしく誉めてる文面だと思うけど……だって正岡さんが感想書くこと自体、めずらしいじゃない?」
 結局何が気に入らなかったのかわからず、言い訳も質問もしにくくて、Sとはそれっきり疎遠になっていた。
 それから数年して、あんな捨て台詞?で去っていったSが突然イベントで私に会いに来た。また同じジャンルになったからだ。
 それで、新刊をもらって、私は初めてSを理解したのだった。
 Sと私は、同じキャラが好きだった。しかし作品での書かれ方は全く逆だった。私は目からウロコが落ちるような思いがした。
 私は、自分にとって大事な人、好きな人ほど、自分の本音を知ってもらいたいと思う。だから、大事な人にほど距離をつめて、たとえ無礼になってもかまわない、馬鹿なところ、悪いところも含めて全部知ってもらいたい。美辞麗句なんて嘘八百と同義だから、絶対に言ってはだめなのである。
 でもSはそうではない。大事な人、好きな人ほど、自分の一番いいところを見てほしい。大事な人にだけは絶対に無礼なことはできない。逆にどうでもいいやつに対しては、どんな無礼をはたらいてもかまわないのである。……それが本を読んでいるうちにわかってしまった。
 つまり、私が仲良くしようと思って馴れ馴れしい態度をみせると、それはSには、自分は大事に思われてない、と感じていたのかもしれない。
 私の方は、Sのよそよそしい態度(ほんとはかしこまっている)で、私のこと嫌いなのかも…と思っていた。
 こうして、私のSに対する誤解は解けた。今まで感じていたとっつきにくさは、実は善意だったのだ。
 でも、なんとなくそり合わないというのは変わらないから(^_^;)、また疎遠になってしまっている…

地下鉄サリン事件

1995年3月20日の出来事。地下鉄サリン事件。

 忘れもしないその日、午後3時頃だったかと思う、職場にいるはずの友人から電話がかかってきました。
「テロ事件だよ。TV見てみ。」
と言われて、TVをつけてみると、どこの局も同じような中継映像を流している。
 この時点で毒ガステロだということが報道されていた。
 そこで、おたくな私たちの話題は
「明日、イベントどうするの?」
 翌日、3/21は晴海国際展示場(当時)で同人イベントだったのです。確かゴジラ館で、主催は赤ブーブーのコミックシティだったかな。
「ていうか、明日イベントある?」
「テロ事件の翌日にお客さん来ないでしょ」
 一応テロということだから、当然人の集まるところが狙われる、というセオリーから考えると、地下鉄サリン事件の現場と晴海は目と鼻の先なのです。
「hikoちゃんたちはどうするのよ?」
 私は当時、子連れ同人でした。こういう状況だから、普通なら私はスペース代を捨てて、イベントを欠席しただろうと思います。しかしこの時、実はスラムダンクの新刊の搬入が予定されていたんです。B5・100ページくらいの本で、400部。最低でもこれを受け取りに会場には行かなければならない。でも子連れでは行けない。
 だって毒ガステロで死ぬなんて、死んでも死にきれんではないですか。自分は同人誌をやりたくてやってるわけだから、毒ガス死覚悟で晴海会場まで行くのもやむを得ない。でも息子たちを毒ガスで死なせるわけにはいかない。まだ小学生で心配だけど、留守番させるしかない…
 この決意を語ったところ、結局ゴルフ予定だったダンナがお留守番してくれることになりました。
(でもでも、せっかく気合い入れて新刊用意したのに、お客さん来ないんじゃなあ… 印刷費の回収は5月のコミックシティまでお預けかあ。厳しいなあ。とりあえず会場行ったら、そのまま自宅へ送り返して、午前中で撤収しょう…)

 当日、地下鉄はどうしても乗る気がしませんでした。
 晴海会場への最寄り駅は、当時は築地か東銀座だったと思います。そこで降りて、徒歩が最安値、タクシーで行くというのが最短時間でした。しかし私は地下鉄に乗りたくなくて、JR有楽町から歩きました(^_^;) 今思えばタクシー使えばよかったですよね。でもこの日は印刷費の回収ができないと思ったので、お金を使いたくなくて…
 天気もすごくよくて、会場に着く頃には汗びっしょり。

 さて、イベント会場には、誰も来ないかと思ってたら、朝から行列が…
 さすが、筋金入りのオタク揃い。こんな時に同人誌なんかよく買いに来る気になるよな……
 とか思いながら、新刊の包みを解くと、なんか案外売れちゃって(^_^;)
 世間はああだけど、ここは別世界。毒ガスなんかなんのその。周りの同人さんたちとしばしヤオイ談義などで盛り上がって、結局閉場までいました。

 400部の新刊は、半分自宅に送り返して、残りは会場で売りました。
 売れ残った10冊くらいはスポーツバッグに入れて、担いで会場を出ました。(徒歩)
 それが重かったので、さすがに帰りは有楽町までは歩けず(^_^;)、築地から地下鉄に乗りました。
 古い駅なので、元々何となく駅構内が暗いのですが、なんか階段が水を流した直後のように水浸しでした。そこで私は、ああ、ここが事件現場だったのだ……と思い出したのでした。
 やおいの二次元の世界から、一気に現実世界に引き戻されたような気がしました。

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Author:正岡
■生涯一腐女子。腐女子の本懐を極める。追っかけ中→小西克幸。市川猿之助。松田龍平。
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■ツイッターへのフォローやメッセージなどもご自由に。http://twitter.com/MasaokaYaoi

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